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食欲さえ封印する

お腹がすいたと、思ったことがありませんでした。

初めてお腹空いたと、感じた瞬間を覚えています。
小学校五年生の時、
学校帰りに良美ちゃんのお家によって、
良美ちゃんのお母さんが、
シュークリームを出してくれた。

その時、初めて、
あ、食べたい、と、
思いました。



それまで、気がつかなかったのですが、
食事の時間というのは、母の怒る時間だったのです。
こぼしたら、お行儀が悪かったら、死ぬほど怒鳴られる。
母のストレス解消のチャンスなのです。

私のアラ探しをして、
やれ可愛くないだの、やっちゃんは弟なのにお前よりもきれいに食べるだの、
大騒ぎ。

テンションが上がると、腕をひっつかんで食べている途中でも、なんでも、
表に出ろ!
こんな子はいらない!
だの、大立ち回りが、始まる。

別にどうとも思わない。
いつものこと。

いちいち悲しんでいたら、生きてはいけない。
被虐待児は、感情を殺す。

いちいち、考えていたら、身がもたないのだ。

そのかわり、自分の人生を差し出す。
感情を殺す。
自分の感情がわからない。
体調の異変にも気がつかない。

人が恐ろしかった。

どう付き合ったら良いかさっぱりわからなかった。
ひとという、意味不明なもの。



ましてや、私には、「自分」などない。

すべて、その場限り。

何事も。





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ミナミさん

ミナミさん

ミナミさんちは女の子が二人。
上の子は私の息子と同い年。いわゆる、ママ友だった。
家が近くてよく一緒に子供を連れて遊びに行った。

でも、
ミナミさんは、下の子ばかり可愛がって、上の子に辛く当たる事がよくあった。
写真を撮る時、

みんなおいでーと、呼ぶが、上の子が来た時に、
「お前なんか来なくていいんだよ。お前の写真なんか撮りたくないわ。」
と言った。

それを聞いた時、まるで、よく晴れたのどかな日が、いきなり暗転したかのような衝撃を受けた。
泣き出す長女。




え???




ひどいことはいっぱいあった。

激しい兄弟喧嘩。

まるで、昔の私の家を見ているようだった。

ミナミさんの下の子は、手がつけられない。
わがままいっぱい。
上の子は陰で妹を思い切りつねる。

暗澹たる思いがした。
ミナミさんが、上の子に
「お前は、可愛くないんだよ!」と言った時の顔が、
母とダブった。

その晩、私は、吐いてしまった。
吐くものがなくても吐き気が治らない。
胃液しか出なくなるほどの胃痙攣。

頭では忘れていても心は怯えている。
心的外傷。

それ以来、もう、ミナミさんとは、一緒にいない事にした。






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ひと嫌い

そう、ごく幼い頃は母の顔色ばかり恐れていた。自分さえ我慢していれば、家が丸くおさまった。絶対に怒ったりしたらいけなかった。そのあとの居心地を考えたら、自分の気持ちなんてどうでも良かった。自分を通したら、どんな恐ろしいことになるかわからないと、幼い頃からずっとずっと思っていた。


…でも、怒って良いのだ。というか、怒らなきゃいけないんだ。
自分を自分が守らなきゃいけないんだ、と、わかったのは、極めて最近。随分と遠回りの人生だ。


母はどうやってひとと関わったら良いのかわからないひとなのだ。そんなひと。

母は、私よりも、もっと孤独で、誰ひとりとして、信じられるひとはいないひと。
家族ともうまく関われないひと。友人もいない。孤独。



何もかもが、思いどおりにはならないと、思って生きているくらいがちょうど良い。どうでもいい。私は一回死んでいるのだから。

生きることは恐怖。うっすらといつもそう感じていた。いつ機嫌を損ねて怒り狂うかわからない母との生活。
私の基礎は、そこで作られた。

母の機嫌は、天気以上に不安定。予測不能。それが、当たり前と、思って生きてきた幼少期。どちらが親だかわからないくらいだった(笑)



消耗しきって、世の中に出た。

けれど、恨んだところで、どうしようもない。

私が、今、息が抜ける場所、そこで生きれば良いのだ。

私は、「しあわせです」と、言ったら、みんなが怒る様な気がするのです。今でも。






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看病、「してやった」

闘病中、両親が、食事を作りに来てくれていた。

朝、主人と息子が、家を出て、
9時ごろ両親がやって来る。

玄関のドアを開けると、
「来たよ」
と寝室のドアを少し開けて、顔も見ないでキッチンへ行ってしまう。
父はギターの練習を始める。
何故だろう…。顔も見ない…。

母は、何やらキッチンで、ずっと、食事の用意やら、何やらをしている。

何も話はしないのだ。
長年の習慣で、親がいるとゆっくり寝ていられない。何か怒っているのでは、と、
心が疲れる。

テレビを見ながらの黙ってする昼食。
そして、息子が帰る時間におやつを出して、息子と話して、
「じゃ、もう帰るから、家に帰ったら、買い物をして洗濯をして夕食を作らないといけないから」
と言って、帰る。

その繰り返し。ため息と、不機嫌。



洗濯は、この家ですれば良くないか?夕食も、うちで5人分作って持って帰れば良いのではないか?わざわざ分けて作らなくても良いのではないか?と、思った。

それは、こんなに大変だ、家事をさせられて、こんな年になってまで、こき使われて、と思う気持ちが手に取るようにわかった。

キツい。何も話さない。怖い。
冷蔵庫をバタンとしめる。
ドアをバシっとしめる、キッチンの収納をガンっとしめる。
お鍋の蓋の音。

そんなのをベッドでドキドキしながら、聞き入る。
恐ろしい。
幼い頃からこういうことにはとても敏感なのだ。

お願い、ご飯なんて作らなくて良いから、
ピザでも頼んで、お花でも気持ちよく飾って、
楽しくご飯を食べたい。
楽しい話しをしながら…。不機嫌に作った料理を、
ボソボソと黙って食べる毎日。



忙しがる母…。

私がして欲しかったのは、話だった。

何もしなくても良いから、励まして欲しかった。
たわいのない話をして欲しかった。たとえ、スーパーの出来合いの惣菜でも、
楽しく話しながら食べたかった。

はっきり言って、来られるのが苦痛だった。
泣きたくても泣けないし、
黙ってただいるだけで、気まずかった。
帰るとホッとした。

何故だろう、相変わらず、不機嫌。

こんな時にまで、親の顔色を伺うのが辛かった。



そして、闘病が終わって数年後、何かの折に、言い合いになった時、母はこう言った。

「 何?あの時あれだけ色々やってやったのに!!あんなに、色々してやったのに!」







私なら、そんなこと、思わないと思った。

私が、母だったら、子供が癌で闘病していたら、できるだけのことをしてやりたい。
励ましてやりたい。


やってやった、などと、思わない。

看病したい。

「あの時の恩も忘れて!」と、凄んだ母。

でも、何故か、その時に私はこう思った。

やらなきゃいけないことは、宿題として人生の中で、やらされるんだ。
子育ての時に、いやいや私の面倒を見ていた分、
後になって余計に私に関わらなければならなかったんだ。
神さまにやらされたんだ。と。

憎らしい子が癌になった。
面倒を見たくないけれど、仕方がない。
「やらされた。」
また、そう思ったんだなぁと、私は感じた。
仕方がないじゃん、産んじゃったんだから。
可愛がって欲しかったなどと贅沢は、言わない。でも、
家のゴタゴタや、自分の不満のはけ口にして、
いつも私に怒鳴り散らしていたのはやめて欲しかった。
心を病むほど、私を壊した事は、取り返しがつかないのだから。


この人、まだ宿題終わってないわ。

子育ては豊かで、楽しくて、時には大変だけれど、実りのあるものだ。

でも、この人は、そう感じる事が出来なかった。
なんと不幸な、気の毒なひとか。

そんなに嫌いだったら、産まなきゃよかったじゃん。
そしたらこんな看病もしなくて済んだのにね。


いや、私は母には必要な存在だった。

自分の淋しさや不満を押し付ける吐きだめとして…。


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七夕飾り

〜思い出す事をランダムに書いています。
あちこち話が行ってすみません。
今日は、こんなお話。
七夕飾りのお話。

一年半の乳がんの闘病。
その頃は毎日毎日ひとに助けられて、
人の優しさが、こんなに心に沁みた日々はなかった。

闘病時の初夏。
七夕にの頃…、学校前のスーパーの駐車場に、
大きな大きな笹が飾ってあった。

その笹は、二階建てのスーパーの屋根まである立派なものだった。
きっと、男の人何人かで運んだものだということがわかった。
土台も組んであった。

ふと目をやると、
その、真ん中に息子の短冊があった。

「願いが叶いますように 」

他の子は、サッカーに選手になりたいだの、
可愛らしい願い事。プリキュアのなんとかがほしいだの、
書いてあった。

息子の短冊を見て、
私は、心が揺れた。

息子の手を握りしめて、空を見上げた。
『七夕の日…、雨、振らないとイイネ。』
こう言うのが精一杯だった。

息子は黙っていた。

ごめんなさい。ごめん。
辛かろう。

10歳の息子だ。
どうか、この子から、母を取り上げないでください。
こんなのでも、母なんです。
この子の母。

エンジンをかけて、クルマを出す。
家に帰ると、疲れたと、嘘をついて、ベッドにもぐった。

私は、子供の頃から生きるのがつらくて死ぬなんて怖くなかった。
できたら、早めに人生終わったらいいなぁとか、思っていたんだ。
でも、これは、学校全体で、作ってくれた七夕飾りなんだって思ったら、
私は絶対に生きないといけないんだって、思った。
そして、私は人にもっと感謝しないといけないんだって
思った。


家に戻ってベッド布団をかぶって馬鹿みたいに大泣きをした。


後にも先にもその場所に七夕の笹が飾られたのはその年だけだった。

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生まれて、すみません

中学生の時から、家にあった文学全集を片っ端から読んだ。
所蔵されていない作品は、書店で、片っ端から買う。
高校時代、授業中は、ずっと、読書だ。
なぜか、先生も知っていて、放っておいてくれた。
国文科に進む以外に考えていなかったし、教師もわかっていただろう。
作家は問わず、読んだ。
古典も、読んだ。


中学の時、ふと太宰治の、「人間失格」を読んだ時に、

これは、私が書いたのではないだろうか???(笑)
(ああああ。すみません!)

と、思うほど、驚いた。
私そのもの…。



当時は、研究がなされていなかったが、太宰は
ひどいネグレクトされて育ったそうです。


「生まれて、すみません。」冒頭から、衝撃が走った。

こんな歳になっても、私は、今、
斜陽館へ行ったら、私は泣き崩れるだろう。

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キッチンドリンカーって!大爆笑なんですが…。

私の高校入学から、母はさらに一人ぼっちになった。

「キッチンドリンカーになってやる」
と、わざと私の目に付くように、アルコールを飲もうとしていたことがあって、
わざとらしい様子が、馬鹿馬鹿しく、白けきった気持ちがした。

飲めば良いのだ。くだらない。

「お母さんやめて」と、言って欲しいのが見え見え。
この時ばかりは、どっちが親なんだと、うっすらと、思った。

でも、なんとも言わなかった。
感情は、封印されて育っていたので、
母に対しては、批判する気持ちはおし殺されていた。。無意識のうちに。

でも、心のどこかで、どうでもいいと思っていた。…無意識のうちに。

母は一人だった。
父は仕事で忙しい。ほとんどいない。
そして、唯一、当たり散らせる私が、家にいないのだ。
その頃、弟がどうしていたか記憶はない。

日曜日は、疲れて寝ているか、
遊びに行っていた。

電車に乗って、買い物をして、お茶を飲んで、
コンサートへ行って、部活をして、
楽しいことばかりだった。

外では、誰も、私を叱ったり怒鳴ったりしない。

高校は、自由な校風で、楽しかった。
母は、家で、一人。

夜遅くに帰ると、半べそをかいて下駄箱の靴や、雑誌やら新聞やら、
そこらじゅうの物を私に投げつけた。

ある時、
「誰も、いつも、いつも、いないんだから!」
と、母が思わず言った事があった。

え?と思った。
が、それ以上は考えなかった。
全てを、考えないように生きてきたので。…無意識のうちに。


母の気持ちなど、その場限りの対応をすれば良いことがわかってきていた。
はっきり言って、興味がないのだ。…無意識のうちに。

これで、母は、本当の孤独になったのだ。
甘えていた私にまで、もう、相手にされていない。

あ、かといって母を嫌いになったわけではないのです。
洗脳ゆえに、大好きだったのです。
オカシイですね。


が、不思議な「大好き」なのです。
表面だけ繕う形。…無意識のうちに。
母の気持ちなど一切考えない。…無意識のうちに。
考えていたら、気が狂ってしまうのです。

ブラックボックス。


もう母が怖くはなかった。いなし方がよくわかってきたから…。

私は、完全に、母専用の子守人形。
自分も、気がつかない。
他の人には対応できない。
母専用。
カスタマイズってヤツだ(笑)

お金は父の言いつけで、
際限なくもらっていた。
本や、美術館や、レコード、楽譜、コンサートへ行くお金はいくらでも与えろと
いう考えの父だった。

本屋で、文庫本は、「今日は三島由紀夫の、ここからここまで全部ください」
みたいな買い方をしていた。

これは今では、父に感謝しています。
学校をサボって、近くの工業高校の子にクルマで送ってもらっていても、
三島由紀夫、漱石、太宰、芥川、川端康成、…。夢中で読んでいた。

そりゃ、本当に、
変な子だった。



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花さき山

「花さき山」という絵本がある。

母は何かでこの本を見て、「これだ!!」と言って、すぐに買って私に読ませた。
あらすじはこうだ。


主人公のアヤは、優しいことをすると、山に花が咲くと、迷い込んだ山で、山姥に教えられました。

あやの家は貧乏で、祭り用の着物を、あやと妹のそよの二人に買ってやることは出来ません。あやは自分はいいから、そよに買ってやってくれと母に言ったのでした。

そして今、咲きかけている青い小さい花。

それは双子の赤ん坊の兄の方が、母親に抱かれたいのを我慢して、弟に譲っている為に咲いていると・・・
兄は目にいっぱい涙をためて辛抱している・・・その涙が花にかかっている露だと。

自分の事より人の事を思って辛抱すると、その優しさと健気さが、
花となって咲き出す。
それがこの花さき山の花だと、やまんばは言いました。


この本のどこが良いのかさっぱりわからなかった。
読ませられながら、はっきり言って殺意さえ湧いた(笑)

この本を読まされて、胸が張り裂けそうだった。
母に対して、弟に対して、苦しい嗚咽が喉まで出かかって、
必死で堪えて我慢しました。

なぜ、可愛がられて、いつも誕生日に大喜びするようなプレゼントをもらう弟を、いつも褒められる弟を、これ以上、私にどうしろというのか…。

でも、これを読んでなぜこんな悔しい気持ちになるのかは、当時の自分には分からなかった。

暗い陰気な切り絵の挿絵の、嫌な本だった。



これ以上、どうやって我慢しろと言うのか。なんでも弟優先なのに、さらにこれ以上、私からも弟に愛情を注げと言うのか。

愛というのは自分が受けて満たされて始めて人に分けてあげられるものだ。弟が嫌いだったわけではない。が、弟を思いやる、そんな温かさは私には全くなかった。自分の苦しさに耐えるので必死だった。自分が味わった事のない愛を、弟にあげるなどできるわけがない。

弟に、私は意地悪をしたのかもしれない。ごめんね、でも、覚えていないのだ。自分がこの家で苦しかった事以外、全く覚えていないのです。

今、弟に嫌われていることを思えば、きっとひどいことをしたのだと思う。
母が私にしていたことを、私は弟にしていたのかもしれない。

ごめんね。
私も被害者とともに加害者だったのかもしれない。

私は、誕生日を祝ってもらったことはない。
ほしい物を買ってもらったことはない。一度もない。
誕生日が、クリスマスの近くだからだ。
クリスマスにも、欲しい物は買ってもらえない。母が買いたい物を買う。

弟は、違う。欲しい物は次から次へと手に入る。

高校入学の際、母は、自分の母校へ合格したら欲しかった時計を買ってやると言った。しかし、私が合格したのは、母の希望よりも良い学校だった。

「〇〇高校じゃなかったから、時計は買わないネ。」

流石にこの時は、父が時計を買ってやれと言って渋々買いに行った。




「弟はかわいい、サチコは憎らしい。」
よくも、はっきり言うよね。
馬鹿なんだね。というか、後先を考えないというか…。
やっぱり、馬鹿だわ。

これを何度聞いたか。
高校へ入ると、家にいるよりも、外が良かった。

帰宅時間はいつも遅かった。10時を大抵は超えていた。朝は、部活の朝練で、6時十分のバス。ほとんど家にいない。
母は、私が帰ると物を投げて、怒っていた。頭に当たって血が出たこともあった。

額から粘っこい生温かい血が流れた。
けれど、もう慣れっこになっていて、母のことなどどうでも良いくらい外の世界が楽しかった。
何も考えず、流れる血を拭く。

「大袈裟なんだから!!大した事ないじゃないの!!」



こんなことになっても、私は何も感じないのだ。
あぁ、面倒だなぁ、どうやって機嫌を取ろうか…と
思っただけ。

何が悪いから叱られた、これを改めよう、など、
一切、考えた事もない。
母も、何かわかって欲しかったわけでなはく、ただ単に、イライラしていただけなので。
愛情など、ない。
心配などしていない。それが、わかるのだ。

考えていた事は、明日の楽しい予定。

高校時代の制服のスカートはふんずけるくらい長く、パーマをかけて、
夜遅くまで友達といた。たまに授業はサボって海にいた。全く勉強はしない。
電話がかかってくると、サッと出かける。

この頃は、母は口を開けば私の素行の悪さを弟に愚痴っていたそうだ。


母からは、困った時はこうすれば良いよ、など、一回も言われたことはない。
母から、私は、何も教わったことはない。教育的な事を言われたことはない。

これは弟が言っていた。
「お姉さんには、いつも、 訳の分からない事で気が狂ったように叫んでいるだけだった。」と。

でも、私は、この頃は、楽しかった。


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プロフィール

ダリア

Author:ダリア
可愛くない私を、嫌々育てた母。仕事第一の父。そして溺愛された弟。病んでいく私。
ネグレクト、被虐待児のいく末です。

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